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Channel: 野球:海外/独立リーグ
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その後のサムライたち 長坂秀樹編 1

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 長坂秀樹という男に初めて会ったのは、何年前のことだろう。長崎県平戸。遠くに海を望む高台にある球場のベンチ裏のことだった。この年彼は初めて日本のプロ球団のユニフォームに袖を通していた。この年、彼は海外での最後のシーズンをカナダのカルガリーで送っていた。シーズンを終え、帰国した長坂に、サムライの元メンバー、根鈴雄次が「ウチでやらないか」と声をかけてきたのだ。根鈴が属する長崎セインツは来たるべきプレーオフに備えて投手を欲しがっていた。長坂は初めて日本でプロのマウンドに立った。 頭の回転がもう少し遅いか、運動神経がもう少し鈍ければ、今頃彼は平凡なサラリーマン人生を送っていたにちがいない。あるいは、体格がもう少しよければ、今頃彼の姿はNPBのマウンドにあったかもしれない。 それが彼と初めて話して感じた印象だった。 有り余る実力を持ちながら、「体育会」特有のタテ社会になじめずドロップアウトした野球選手…。独立リーガーに必ずと言っていいほど貼り付けられるレッテルとは遠いところに彼はいるように思えた。 「そう言うと、ストーリーが作りやすいんですよ」 すでに語られていた自身の像について、長坂は笑い飛ばしていた。 翌シーズン、彼はそれまでそうしていたように海を渡らなかった。新潟会った彼は、BCリーグ、アルビレックスのオレンジのユニフォームを着ていた。 「ちょっと調子が悪いんですよ」 という彼は試合中、ユニフォーム姿のまま、スタンドにいた。プロ8シーズン目、肘が悲鳴を上げていた。この年、2010年シーズン、2勝1敗1セーブ、防御率0.94という成績を残して、長坂はマウンドを去った。翌シーズンを迎えても肘が治ることはなかったのだ。 神奈川県藤沢市。駅近くの繁華街の一角にあるビルの2階で長坂秀樹は現在野球塾を開いている。 私がここを訪ねるのは2回目である。前回は、実際にレッスンを見せてもらった。現役時代に比べれば、一回り恰幅が良くなった長坂は、子供あいてに丁寧にボールの投げ方を教えていた。「プロアマ規定」のため、独立リーグでプロ生活を送った長坂は高校生には指導ができず、塾では小中生相手にコーチングしている。「きちんと指導すれば、誰だって140キロ投げれるようになります」 子供に見せる笑顔そのままに言ったこのセリフからは、彼の指導者としてのプライドが垣間見ることができた。 そして今回、恰幅はますますよくなっていた。あの時指導していた中学生は、今は甲子園を目指している。「メールはときどききますよ。指導はできないんですけど」 140キロは出るようになったのかと私が問うと、「いや、まだですね」という返事が例の笑顔とともに帰ってきた。現役時代同様、指導の方も、野球というものは、思うようにいかないものだとその顔には書いてあったが、笑顔が崩れることはなかった。「うまくいかない、人生とはそんなもんなんだ」というある種の達観の境地にこの男は達しているようだった。 「サムライですか、あんまりあそこでやってたこと、他人に言うことはないんですけどね」 こう言いながら、長坂は2005年シーズンを振り返り始めた。 ある時期までの球歴は輝かしいものだった。甲子園出場に大学選手権決勝進出。その先には当然プロの世界が待っていたはずだった。ドラフト指名されるというだけではない。小柄な体から放たれる150キロの剛球を持ってすれば、一軍での活躍も夢ではなかった。 そういう彼にとって、サムライベアーズというチームは自分がいるべき場所ではなかった。単身アメリカへ渡って3年目。マイナー、それもメジャーとの関係のない独立リーグという場ではあったが、ようやく「プロ」でやっていける自身がついた矢先の移籍話だった。「もう野球辞めようかと思いました」 自分がプレーするリーグとは別のリーグに日本人チームが立ち上がったことは耳にしていた。しかし、そんなことは長坂にとって別の世界の出来事にすぎなかった。「そういうチームができたのは知っていましたけど、『そんなのやってんだ』ってくらいで、まさかそこに自分が加わるなんて考えてませんでした。それが、そこに移籍なんて。話が来たときにはすぐに断りましたよ。聞いた話ではサムライが勝てなかったので、選手を探しているって。で、根鈴(雄次)さんは僕のこと知っていたんで、彼がリーグに掛け合って、『ノーザンのリンカーンに長坂っていうピッチャーがいるんで獲得できないか』みたいな話をしたみたいなんですよ」当時長坂は強豪リーグと呼ばれていたノーザンリーグのリンカーン・ソルトドッグスに在籍していた。このリーグは今でも独立リーグ実力ナンバーワンを誇るアトランティックリーグとアメリカ独立球界で双璧をなしていた。ここからならメジャー球団との契約も夢ではなかった。「あの頃、アトランティックも強かったですが、ノーザンも強かったと思います」しかし、長坂に選択肢はなかった。リーグをまたいだトレードを断わることはアメリカでのプロ生活をなかばあきらめることを意味していた。「あのチーム、リーグが直接運営してたじゃないですか。だから交換要員はゴールデン・リーグの別のチームの選手2名だったと思いますよ。それと僕一人のトレードっていうことになったんです。当時僕はアメリカではプロ2年目(2004年はプロ契約を結べずアマチュアリーグでプレー)。給料は最低の「ルーキー」ランクだったんです。その僕とのトレード相手を球団がゴールデン・リーグの選手から選んでいいって言うことだったんで、リンカーン側としては断る理由はなにもなかったでしょうね。これに金銭もついてきたらしいから球団は大喜びでしょうね」サムライ時代の長坂(一番右)

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