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Channel: 野球:海外/独立リーグ
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その後のサムライたち(南容道編)⑤

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(クロマティ監督の指示を受ける南) 指導者として第一歩を踏み出したクロマティと選手との間に溝ができるのには時間はかからなかった。プロ未満の技能の選手たちを、ものメジャーリーガーが理解することは不可能だったようだ。「監督は、もちろんキャンプからいましたよ。その時点で、こりゃやばいぞって、多分そう思ってたんじゃないですかね。でも、最初はお互いぎくしゃくしてなかったですよ。選手ともなにもなかったですし、むしろ取材陣がいっぱい来てて上機嫌でしたね。日本からも結構来てたんですよ」  しかし、最初の1か月、全く勝てない状況が続くと、気分屋の堪忍袋の緒は完全に切れてしまった。やがて試合中のベンチにはクロマティの暴言が響き渡ることになった。「英語分かる人なら、もともと言葉汚いなって思ってたんですけど、まあ、ひとつき立たないうちにあからさまに出てきましたね」 クロマティの怒りの矛先は、主力選手より、控え選手に向けられることが多かった。彼らの拙いプレーに目をつぶる忍耐力を、世界のトップでプレーしてきた新米監督は持ち合わせてはいなかった。そういう、むしろ試合中は監督と一緒にベンチにいることの多い選手たちは、ゲームの間じゅう、びくびくしながら出番を待っていたという。「だから、自分は軋轢なかったですね。僕には直接はなかったです。多分エラーした時なんかは裏で相当言ってたと思いますが。まあ、そんなのは仕方ないとは思いますね」 メンバーたちの多くが、「あれはつらかった」という移動生活は、苦にならなかったという。「僕は、マイナーを経験してましたから、全然苦になりませんでした。バス移動だって、日本語のビデオ流れてましたね。確かに負けたときなんかは、クロマティが機嫌悪くて、ブチって切っちゃったっていうのもありましたけど(笑)、全然苦にならなかったですね」試合に勝つどころか、試合をこなすのに精いっぱいという状況に、南たちも動かざるを得なくなった。チーム立ち上げに関わったメンバーたちは、ある種の決断を下した。四方八方手を尽くして、プロ経験のある日本人選手をかき集めたのである。そうして、シーズン後半はようやく、アメリカのマイナーリーガー達と張りあえる戦力になったと多くの元選手は回想する。しかし、この意見に対しても、南は冷静に捉えている。「どうですかね…。いや、そんなことはないですね。もう、だましだましですよね。ほんと。確かにピッチャー陣は良かったです。ピッチャーは他と比べても遜色はなかったです。でも、それだって先発陣に限ったことで、リリーフ投手の質はかなり落ちましたね。投手陣でも、戦力になったのは4人くらいですね。関、長坂、五十嵐(貴章、元ヤクルト)さん、そして上野(啓輔、のちヤクルト)。この4人がいたのでもったようなもんです。この4人でローテーション回してました。それよりも、どんどんリリース(クビ)されていったんで、最後の最後はもうギリギリの人数だったんじゃないですかね。コーチも削られましたから。そういう部分ではしんどかったです」 クロマティの怒りは、暴言だけでは解消できなかったようだった。シーズンが深まるにつれ、クロマティは最後の手段、つまりクビを次々と選手に言い渡していった。シーズン最後は、プロチームとしてぎりぎりの人数でサムライたちは戦ったという。しかし、メンバーの多くが複雑な思いを抱くこの監督の行状にも南は冷静であった。「監督もひどかったとみんなは言いますが、ある程度仕方なかったと思います。やっぱりチームじたいがプロレベルではありませんでしたから」南自身、自分がプロでプレーしているという意識はなかったと言う。「多分、プロだと思ってやっていたという人はいないんじゃないでしょうか。僕は、マイナーの経験があったんで、月1500ドル位、根鈴さんの次くらいもらっていましたが、それでもプロでやっているっていう気持ちはなかったですよ。そういう意識でやってたのは、長坂くらいじゃないですか。あと根鈴さんかな。プロ野球選手だなんてみんな思ってなかったと思いますよ。お金のためにやっているっていう気持ちもありませんし、とにかく野球ができる喜び、そのためにやってた選手がほとんどだったと思います。まあ、五十嵐さんはNPB復帰、長坂ならメジャーっていう明確な目標がありましたけど、そういう選手は五人くらいじゃないですか」 大学時代、悔しい思いをしながらも、最後の最後に監督から「もっと上でできる」という言葉を引き出した南。そして夢の続きを見るべく実に4か国をさまよった。その夢を一度はあきらめながらも巡ってきたアメリカでのチャンス、独立リーグとは言え、そこはまぎれもなくプロの世界だったはずだ。少なくともその入り口に南は立ったはずだった。サムライでもう一度プロの門をこじ開けようとは思わなかったのだろうか。「そういうのはなかったですね」。この問いに対しても南はあくまで冷静だった。「大学の先輩(江本)から頼まれたから行こうかみたいな感じですかね。それに(会社が倒産して)行き先もなかったですし。自分のキャリアとしてプラスになると思っていたので行きました。だから、メジャーリーグに行くぞって、そんな気持ちはなかったですね。もうメジャーのレベルも知っているし、ブランクもあるので、年齢的にも100%無理だとわかっていましたので。まあ、そういう気持ちはゼロだったかって言われるとそうではないですけど…。やっぱりやるからには上を目指すと言うのはありますから。でも、やっぱり実際動いてて、ブランクがすごかったんですよ。すぐに怪我したんですよ。2試合目だったかな、腿を肉離れしたんですよ。だからそれからもう90試合目まで、足引きずってプレーしてたんですよ。それくらい体がついてこなかった」南は知っていた。自分の体がすでにプロとして連戦に耐えうるものでなかったことを。すでに自分のピークは過ぎていたことを。そして、自分の才能はすでに尽きていたことを。サムライベアーズは、アメリカでのシーズンが終わり、帰国後、「サムライファイヤーバーズ」と名を変え、日本各地を転戦した。その際、NPBの二軍とも数試合をこなしている。メンバーの中には、その試合でプロ相手にアピールし、ドラフトへという期待を抱いていた者もいたが、南は、ここでも高ぶることはなかったと言う。「まあ、最後の集まりだから参加しよう、みたいな。そこでプロへの扉をこじ開けるってのはなかったですね。でも、やってみると、プロの二軍相手に結構やれたんですよ。阪神戦でも、ベイスターズ戦でも3安打したんですよ。だから、『できるな』って思いましたね。プロの球でも全然打てるなって。でも、そこからまたトライアウト受けてっていうのはなかったです」と言いながらも、彼はこのツアーにすべて参加している。本当にもう一度プロに挑戦したい気持ちはなかったのか、今一度聞いてみた。南は少し考えた後、口を開いた。「やっぱり、ないと言ったらうそになりますね。ただ25(歳)まで韓国でやってた頃までの、がっつきはなかったですね。もう27(歳)とかだったので、年齢的に厳しいってのはわかったました。だから日本の独立リーグ行ってもう一度、とは思いませんでした」 人は誰でも夢を見る。しかし、その夢は夢のまま終わることが大半である。だから、夢を見続けることはときにつらい。そして、人はいつか夢と現実との折り合いをつけることを迫られる。その折り合いをつけることがなかなかできないでいる男たちが集まるところが、当時のアメリカ独立リーグだったのかもしれない。アリゾナの灼熱の荒野の中で見た夢はやはり蜃気楼でしかないことを南は知っていたのかもしれない。【サムライベアーズの記事が掲載された「読む野球 9回勝負」は、絶賛予約受付中です。 http://books.rakuten.co.jp/rb/12709057/】

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