サムライベアーズは、33勝57敗という成績を残してシーズンを終えた。帰国後、プロ(NPB)入りという、彼らの本来の目的を果たすため、チームの仕掛け人であった江本孟紀(元阪神など)がショーケースを用意してくれていた。プロの二軍との対戦を含めた6試合をサムライたちは戦うことになったのだ。格安の夜行バスに自腹で乗り込み、日本各地を転戦した。その中で、声がかかった者は、プロの球団のトライアウトを受験した。リリーフの矢島に、先発の声がかかったのは、最終のシダックス戦のことだった。このチームから戦力外通告された男に対するコーチの堀井の配慮だった。 「堀井さんから、『どうだ』って言われたんです。もちろん、僕も行きたいって返事しましたよ」 この時、矢島の中では、プロへのアピールという気持ちはすでに薄れていたという。主力選手の多くが、つてを頼って受験する中、矢島は結局、NPBのトライアウトは受けていない。「なんでだろ。ナガ(長坂秀樹)とかは受けてたけどなあ。話が来なかっただけかもしれませんね。だから、もう僕は(プロ入りは)ダメだと思ってました。それに、もう、サムライで終わりだと決めてましたから。まあ、プロの二軍との試合は、そういう気持ちが若干あったかもしれませんけど。だから、シダックス戦も、プロへのアピールではなかったです。複雑でしたね。シダックスを首になったんですから。抑えて見返してやりたいという気持ちでしたね」 では、ここでいいピッチングをして、シダックスに戻ろうという気持ちはなかったのか。「それも、なかったですね」 矢島にとって、この試合は、自らの野球人生へのけじめだった。「せっかく投げさせてもらったんですけど、めちゃくちゃに打たれました」自分のペースを保てたのは、ウォーミングアップまでだった。ブルペンに立った時点で、おかしいのを自分でも感じた。初球を投げた瞬間、力んでいるのがわかった。「もう固くなってました。自分でもそんなに力まなくてもって思ったんですけどね。もうその時点で戦いが始まってましたよね。アピールしたいし、シダックスのみんなは、僕が投げている印象、あんまりなかったと思うんですよ。肩壊してましたから。だから、マウンドでも、自信のない自分がいるんですよね。調子が良かった時の自分がイメージできない。だから余計にいいところを見せなきゃって…」 もうスカウトの目は気にならなかった。相手チームの監督に、認めてもらいたいというわけでもない。意識は、自分が役に立てなかったチームにのみ向いていた。「前の年、野村監督1年目の時にシダックス、何連勝もしたんです。都市対抗の時に。ベーブルース杯から都市対抗の決勝で負けるまでずっと負けなくて。強いチームでしたね。それで、そういう強いチーム相手に自分が投げられる、そう思うと、抑えてやろうと思いますよね」 ガチガチの緊張に加えて、慣れない先発。矢島は力を発揮することはできなかった。3回5失点。これが矢島の現役最後の登板となった。 矢島はユニフォームを脱いだ。そして、人生初めての就職活動をし、不動産会社に職を得た。まだ、プレーできる自信はあった。しかし、目指す頂点がなくなってしまった今、これ以上野球を続けることを矢島自身が許さなかった。彼には、随分と待たせたひとがいたのだ。生活の足場を固めた矢島は、所帯を持つことになった。「僕は、あくまでプロ野球選手になりたかったんです。そうでないなら、本気でやる野球は辞めようと思ってました。プロに行きたいっていう目的だけで野球やってたし。最後に行ったサムライでもホント調子よかったし、堀井さんにもいいんじゃないかって言葉をかけてもらったんです。でもまあ、日本に帰ってきて、結果が出なかったんですよね。プロの二軍相手にも投げたんです。湘南(シーレックス・横浜二軍)戦も阪神戦もきちっと抑えましたよ。一番いい状態でプロの二軍とやって、そういう絶好の場面があっても、ドラフトから声がかからない。そうなるともうだめだなって。結局、自分の弱さなんでしょうけど」 実際に投げてみて、プロとの距離を感じることは決してなかった。「もともと二軍なんて大したことないって思ってましたから。だって、ラッキーで入った奴もいっぱいいるでしょう。だから、臆することなんて全くなかったです。むしろシダックスの時の方が、緊張しました。あの頃、プロの二軍より、シダックスの方が強かったですから。僕がいる頃も、阪神の二軍とかと試合やって余裕で勝ってましたよ」 こうまくし立てた後、矢島はポツリとこうつぶやいた。「でも、運も実力のうちなんですけど」 矢島に運がなかったのか、実力がなかったのか、誰にも言い当てることはできないだろう。ただ、確かに彼はカクテル光線に照らされたマウンドにあと一歩のところまでたどり着いた。しかし、「プロ」という夢は、あと少しのところでいつも手のひらから滑り落ちていった。「だから続けてよかったなって思います。シダックスのズタボロ状態で辞めたら、野球をあまり好きでない状態で終わることになっていましたから。で、台湾に行ってもあっさりクビになって、それはそういう世界だから仕方ないですけど。それで、もう終わりだなと思って、オランダまで行って。ここで終わりかなって思っていたところのサムライベアーズでしたから。もう最高に、僕にとってはいいチームで、いろんな面で。仲間たちにも恵まれて。存分に野球もできましたし。だから、これでいけないなら、最後にしようと思いました」 だから、サムライと同じ年に産声を上げた日本の独立リーグや、もう一度アメリカでということは、頭には浮かばなかった。「サムライに行った時点で、もう26歳でしたから。普通に考えたら、もうプロなんかない。でもその中で、わずかな、かすなか可能性があるんじゃないかと、自分で思ってて、なおかつ、調子も良かったんでで。もうそこにかけてました。それがダメだったんですから。彼女もいたんですよ。もちろん今の奥さんですよ(笑)。野球やってるうちは、どこ行っちゃうかわからない。ホントは、オランダ終わった後、もう辞めるつもりだったんです。もういい年でしたから。彼女と一緒になろうって。でも、根鈴さんから、サムライの話が来て、どうしようかって迷ってた時に、彼女が言ってくれたんですよ。『じゃあ、やってくればいいじゃん』って。そうやって、背中を押してもらったのもあるので、もう自分で一区切りつけなきゃならないって、そう思いました」 シーズン後、サムライベアーズの解散がリーグから発表された。そして、サムライたちの下には様々な誘いが舞い込んできた。日本で遠征ツアーを組んだ際のチーム、「サムライファイヤーバーズ」は支援者を見つけ、京都で再出発を図ることになった。しかし、別の場所で働きながらのクラブチームでのプレーには、あくまでプロとしてのプレーにこだわるサムライたちは興味を示さなかった。何人かの者は、あくまで頂点を目指してアメリカに戻ることを決意した。そして、主力の南容道、関連太郎らは、東北に立ちあがった「赤べこ野球軍団」に参加した。シーズン中は野球に専念できる上、スポンサー企業が給与を出してくれるプロに近い環境で、社会人野球の頂点、都市対抗を目指す道を選んだのだ。矢島はこれにも心を動かすことはなかった。「僕は社会人になって打ちのめされたんで、なんか興味が湧きませんでした。あとになって、彼らが都市対抗に出た時は、みんな楽しそうに野球続けていいな、なんて思いましたけど。今でも、もしナンチャン(南)みたいに赤べこでやってたら、どうなってただろうなって思う時もありますけどね。 根鈴さんや青木だってそう、あの後もずっとプロとして野球続けたでしょ。ふたりみたいに続けてたらっても思います。ふたりを見ていると、とくに青木なんか人間的にも素晴らしいし、NPBのキャリアもあるし、実力もあるんで…。僕にもできたのかなとは思いますけど。あの当時は、思わなかったですけど、今はあの時野球にたずさわってたらどうなってたかな、とは考えますね。僕もずっと野球やってたんで、引退の後も、なんか野球関係の仕事すると思ってたんですよ。だけど、実際は違う。今でもちょっと違和感があるんですね。野球にお世話になった、恩返しをしなきゃならない、っていうのに、普通のサラリーマン。まあ、慣れちゃったんで」 そう話したあと、矢島はポツリと付け加えた。「でも、遅かれ早かれ、いつか辞めなければならないときは来ますから。自分にはそう言い聞かせてます」
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