「そろそろかな」。2004年秋、帰国した矢島の頭に「引退」の文字が浮かんだ。26歳。アマチュア選手としては、潮時と言ってもよかった。 そんな矢島に「手伝ってくれないか」と声をかけたのは、シダックス時代の先輩だった。彼もまた現役を「上がり」、高校野球の監督として指導者の道を歩もうとしていた。給料も、多くはないが、クラブの父兄会から出るという。なによりも、無職になった自分に野球に携わることができる仕事が舞い込んできたのだ。矢島はふたつ返事で、コーチを引き受けることにした。 しかし、気持ちを新たにコーチ業を始めた矢先、一本の電話が入った。「アメリカでやんない?」 声の主は、オランダでもプレー経験のある根鈴雄次(元モントリオール・エクスポズマイナー)だった。「根鈴さんとは、オランダでは(プレー年度は)かぶってないんです。どうして知っていたのかなあ。一番最初はなんだっけ…。そうそう、専門学校時代でした。いろんなところでトライアウトがあったんですが、開催されてたんですよね。そこに根鈴さんが来てたんだと思います。それでご本人を見たり、噂を聞いたりして、『スゲー人がいるな』って思ったんです。もちろん、根鈴さんは受験者の立場ではなくて、後輩の人がテストを受けに来てたんですよね。ああいうのって、だいたい最後まで残る奴って決まってるんです。僕も、そういうところでは最後まで残る方でしたから、なんって言うか、なじみの顔みたいになるんですよ。 でも、なんで電話連絡するような仲になったんだろな…。それもトライアウトです。アメリカで、ジョーンズタウンに行く前に、別のチームにも受けに行ってたんですよ、スペリオール・デュークスだったかな。そこで、法政大学の根鈴さんの後輩とトライアウト一緒に受けたりしてたんですよ。それで、根鈴さんとも知り合いになったんだと思います」 電話の向こうの独立リーガーのパイオニアは、こう切り出した。「実は、サムライベアーズってチームができるんだけど…」矢島は、その時、もう半ば、選手生活には見切りをつけていた。高校にコーチに行ったり、池田の紹介で、野球を題材にしたテレビドラマの実技指導をしてみたり、次の道を模索していた。その中で、今一度、勉強しなおし、野球経験を生かしてトレーナーの道に進もうと考えていた矢先の現役復帰話に、矢島は二の足を踏んだ。根鈴の誘いに即答はせず、時間をもらった。 年が明けて、矢島はメジャーリーグ、シカゴ・ホワイトソックスへの移籍が決まった井口忠仁の自主トレに参加することになった。井口のエージェントの紹介だった。「トレーナーになりたいんだったら、井口さんに一度帯同して勉強して来い」 この頃、矢島の気持ちはすでに第二の人生を向いていた。2005年1月、矢島は沖縄へ飛んだ。トレーナー修行と言いながら、プロの一流選手と一緒にひと月体を動かしたのは、まだ心残りがあったからかもしれない。自分では精いっぱいやってきたつもりだったが、自分の限界はまだ先にあることを思い知らされた。「無茶苦茶体いじめましたね。負荷は違いましたが、回数は井口さんと一緒でした。もちろん僕の方が軽いんですが、それでもついていけないくらいでした。もう生まれて初めてこれくらい練習しました」 トレーナー修行できた沖縄で、矢島は自分の体が以前より強くなったことを感じた。「まだやりたんだろ。野球で食っていくのは難しいから、トレーナーするんだろうけど」 メジャーに挑戦する一流プロの言葉が矢島の心を決めた。気がつけば、根鈴に電話をつないでいた。「もちろん、井口さんは僕がアメリカへ行ったことなんか知りませんでしたよ。でも、なんだか不思議でした。井口さんがメジャーに挑戦した同じ年に自分もアメリカでプレーするなんて」 この年のオフ、この自主トレに参加した的場直樹(現北海道日本ハムコーチ)の結婚式に矢島は招待された。同じテーブルには、井口の姿があった。矢島はアメリカでプレーしたことをここで報告したという。「そうなんだ。もし来年も続けるなら、また自主トレおいでよ」 井口がかけてくれたせっかくの言葉には、しかし、矢島は応えることはなかった。「サムライで燃え尽きちゃたんですよ」 しかし、確かに矢島はあの夏、アメリカのプロ野球の舞台にたった。マイナーかメジャーかは彼の中で問題ではないだろう。野球人としての魂を燃焼尽くすことができたのだから。
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