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Channel: 野球:海外/独立リーグ
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その後のサムライたち 矢島正徳(元シダックス)編 4

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(台湾時代の矢島のユニフォーム)「続けたいの?」 失意の矢島に池田が声をかけた。矢島がテレビのオーディション番組に出た時のコーチ役だったこの男は、この当時、メジャー球団と提携を結んだ野球アカデミーに人を送るスカウトのような仕事をしていた。フロリダにあるアカデミーのつてを頼れば、雇ってもらえるチームがあるらしい。但し、行き先にはこだわるなという。 新しいチームが決まった。月給8万円にチーム関係者がアパートを用意してくれた。決していい待遇ではなかったが、野球を続けられるだけで十分だった。ただ、行き先はアメリカでもメキシコでもなかった。 スパルタ・フェイエノールト。(フェイエノールト時代のユニフォーム)オランダの名門サッカーチームをもつスポーツクラブ傘下の野球チームだった。サッカーの大陸欧州にあって、マイナースポーツである野球の環境は決してよくなかった。投球練習をしようとブルペンに入れば、マウンドがない。上位チーム以外は、まさにクラブチームで、選手たちは、昼間は、皆それぞれ仕事をこなし、夕方に集まって練習を行う。試合は週末の2試合だけで、試合のない日、ひとり残された矢島はモチベーションを保つのに苦心した。「ほんとクラブチームだなって感じでした。とてもじゃないけど、プロと言えるような環境じゃなかったですね」それよりもなによりも矢島を失望させたのは、その野球のレベルの低さだった。上位2チームは、日本の社会人野球の中堅レベルと伍することができるのではと思えたが、下位チームは、軟式のトップでも勝てるのではというレベルに矢島のモチベーションは下がる一方だった。「ついにこんなところまで来てしまったか。そういう思いでした。僕がいたチームは弱かったんで余計にそう思ったんでしょうけど。正直、シダックスならぶっちぎりで優勝してたでしょうね」 なんのためにヨーロッパまで来たのだろう、そう思うと、自分が情けなくなった。チームの惨状に、助っ人として合流した、カリブ出身の元マイナーリーガーの姿だけが、矢島の気持ちを和らげた。 「今までプロを目標にプレーしてきて、ステップアップを目指して来たんですけど、ガクッて下がったなって感じでした。他の選手はプロでもないし、要するにクラブチームですよ。仕事しながら週末に集まると言う感じで。一番強いチームは、スポンサーがついていて野球だけで食べていける人がいましたけど。正直、僕の野球人生、ここまで来たっちゃかって思いましたね。もうここまで来ると、次につながらないな、ここまで落として野球を続けたくない、そう思いました」 夏が終わると、矢島はオランダを離れた。失意の帰国だった。「オランダの人は皆、ものすごく親切で暖かかったんですけどね。今でも涙が出るほど感謝してますよ。あっ、そうそう、途中で入ってきた元マイナーのピッチャー、ディエゴマール・マークウェルって言うんですけど、彼、アテネオリンピックの代表選手だったんですよ。彼のピッチングなんか見てると、日本のプロでも十分やれるだろうなと思いましたね」

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