今にして思えば、シダックスとは入団当初から歯車がかみ合っていなかったのかもしれない。矢島は野村が監督としてやってきた初日に、ニュースの第一号になっている。新監督がチームの陣容を見定める前に自らミソをつけてしまったのである。「怒られたんですよ。野球のことではないですけど。新聞にも出ました」野村を取り巻くマスコミの多さに矢島は戸惑った。「僕、基本的に挨拶は欠かさないんですけど、その時は、もうタイミング逃しちゃいました。ここ割って入んのもなんだなって思っていたんですよ。でも、ずっといるんですよ、取材陣が」マスコミが退散するのを待つ矢島。矢島の思いとは裏腹にフィールドに立ちすくむその姿は、いつまでも挨拶にも行かない無礼な新人と周囲には映った。たまりかねたマネージャー促されて挨拶をする矢島に野村の厳しい一言が浴びせられた。「これから一年、お世話になる人間に挨拶もできねえんじゃ人間失格だ」 矢島はただうなだれるだけだった。「そうだよな、割ってでも失礼しますって行けなかった自分が情けない、そう思いました」 私は、この話を聞いた後、聞き返してしまった。本当にそう思うのかと。確かに挨拶は遅れたが、それも矢島なりの気遣いだったのだ。それをいきなりなじられれば、言い訳の一つでもしたくなるのは当然である。しかし、矢島はただひたすら素直だった。「そうですよね。でも、やっぱり僕は思います。マスコミは関係ないだろって。野村さんはまあそういうのに慣れているわけですよ。僕にしてみればああいう場は初めてです。でも、だから、割って入れなかった、ってのはただの言い訳ですね。だから思いましたもん。ああ、そうだよな、あの時はもう、練習始まってましたから。その前に一番にい行かなきゃなんねえのにな、監督が怒るのも当たり前だよなって。それがダメだったのかも知れないですね。そんなの行けるわけねえだろって思えるくらいの性格だと成功したのかもしれませんけど…。わかんないけど」 シダックスは投手陣もすさまじかった。翌年、争奪戦の末、ドラフト自由獲得枠で巨人に鳴り物入りする野間口貴彦に、のち日本ハムファイターズの左のエースとなる武田勝ら今すぐにでもプロで通用するようなピッチャーがそろっていた。そのような陣容の中、矢島は入団すると同時に肩の故障に悩まされる。「冬のセレクションで140キロくらい出たんで大丈夫だろうと思ってたんですが、キャンプが始まる頃に、ちょっとおかしいなってなったんです」 ようやく投げられるようになった5月には、すでに投手陣が整っていた。練習試合でいくら抑えても、すでに矢島の居場所はなくなっていた。 「ブルペン入ると、野間口や武田がバンバン投げてるんですよ。その内、都市対抗が決まったら、補強で内海(哲也・現巨人)なんかも来て、ブルペンはすさまじい状態になったんですよ。もうストレートから変化球の切れから全然違いました。それに野間口なんか、僕より一回り以上大きかったですから。これが逆指名でプロに入る奴らかって、そんな感じでしたね。シーズン初めは、僕が全力で投げられなかったですから余計にすごいなって思いました」 チームが都市対抗で快進撃を続ける中、矢島はチームメイトたちのプレーをただ眺めるしかなかった。 シーズン後、待っていたのは戦力外通知だった。「もう上がり(引退)だね」 普通のサラリーマンとして会社に残るかどうかの打診は、迷うことなく断った。「まだ野球ができると思ったんで。野間口まではいけないかもしれないけど、ギリギリプロの入れるんじゃないかと。だから野球と離れようとは思いませんでした」 2003年11月、矢島はシダックスを退社した。それでも野球は続けるつもりでいた。「だって、まだ十分にやれる自信がありましたから。単に野球できるっていうんじゃなく、上、つまりプロを目指すことができるって思ってましたから」(シダックス時代) シダックスの先輩の元プロの選手を頼ると、ある人物を紹介してもらえた。「台湾はどうだ。うちのチームはダメだけど、別のチームなら紹介してやるよ」 矢島に手を差し伸べたのは、当時、名門、兄弟エレファンツでコーチをしていた榊原良行(元阪神など)だった。迷うことはなかった。残り少ない貯金をくずして矢島は台湾へ飛んだ。「結果次第で契約してやる」と言う統一(現統一セブンイレブン)ライオンズのキャンプに合流した。ひと月ほどして契約書が提示された。月給50万円。「但し」。球団は条件を付けるのを忘れなかった。 外国人枠の都合で、ロースターに入れなかった。当時、二軍もなかった台湾で、矢島は「保険」として雇われることになった。「それでもいい、契約しようって思いましたね。ここで人生変わるかなって。シダックスのまで野球人生終わったら最悪だったと思うんですよね。だから良かったです」 条件は申し分なかった。プロとしては少ないが、20代の若者には十分すぎるくらいの給与だった。「正直シダックスよりだいぶ良かったですよ。あのチームには日本人コーチもいらしたんですけど、言われましたよ。実業団よりだいぶいいだろって」 日本では手にすることのできなかった高いギャラに矢島は「プロ」を感じたが、ひと月もしないうちに逆の意味で「プロ」を思い知らされる。「チームには巨人にドラフト4位で入った石川(雅美)投手もいたんですよ。僕よりちょっと年下だったかな」 台湾プロ野球は月給制である。調子が上がらねば、すぐにクビが待っている。「助っ人」外国人の場合は、期待が大きいだけに、とりわけ厳しい。それなりの数字を残していても、球団が目移りして同じポジションに別の助っ人を呼んで来れば、その場でお払い箱となる。石川にしても、結局、台湾では8イニングしか投げることなく解雇されている。日本でプロ経験のない矢島は、なおさら「保険」的な要素が強く、力を試す場も与えられず、開幕後、たった半月で解雇が言い渡された。「メジャーリーガーが来たんで」 球団の説明は単純明快だった。
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