10年前の2005年に発足した日本初の独立リーグが四国アイランドリーグplus(当初は「四国アイランドリーグ」)。今年はいわゆる節目の年を迎えているが、このリーグでただ一人だけ10年間ずっとプレーしてきた選手がいる。 高知ファイティングドッグスの背番号「0」、梶田宙(かじたひろし)外野手である。 梶田選手は1983年1月生まれで現在は31歳。N.P.B.でも30歳を超えると現役選手が減ってくる年齢でもあるが、ついに10年目にして「引退の時」が訪れた。 アイランドリーグも毎年のように新しい選手がやってくる一方で、やはり少なくはない選手が去って行く。今季、中日ドラゴンズのセットアッパーとして活躍している又吉克樹投手のようにN.P.B.へと旅立っていく選手もいるが、多くのプレーヤーはここでユニフォーム生活を断念し、新たな社会へと「卒業」していく。 アイランドリーガーもプロ野球選手とはいえ、N.P.B.のような華やかさには欠けるし、ここが最終的に目指す場所であるべきでもないので、多くの選手におかれては去るときはひっそりと…という感が否めないのが実情でもある。 ただ梶田選手の場合は…黙ってやめるのは周り(ファン)が許さなかった? アイランドリーグ史上初となる(!?)公式戦における「引退試合&引退セレモニー」が設定された。その日が9月13日であった。 アイランドリーグの公式ニュースでも知らせが発せられ、告知ポスターも準備された。高知ファイティングドッグスのファンたちも事前にメッセージを書き、あるいは球場にも最後の勇姿を見届け、また最後まで声援を送ろうと熱心なファンが駆けつけていた。 球場のみんなで梶田選手を送ろう…それは梶田選手の愛称:CHU(←「宙」の音読み)から「CHUプロジェクト」と名付けられ… この試合では指名打者として出場していた梶田選手が打席に出る時、ファンは高知FDのチームカラーを基調とした赤のメッセージボードを掲げて梶田選手を応援するのであった。 この日は香川オリーブガイナーズとの対戦。梶田選手の名前がアナウンスでコールされるごとに、相手チームの応援席からもひときわおおきな拍手、歓声が沸き起こっていた。 試合としては香川OGが2-0で勝利することになって、結果的にホームチームの高知FDは9回の裏の攻撃まで行うことになった。その最後の打者となったのがこの試合で5番に入っていた梶田選手であった。 後の引退セレモニーの挨拶中にこの試合の打席を振り返って「(全打席凡退だったので)かっこいいところはみせられなかったけれど、それも(引退していく身としては)よかったのかもしれない」という旨の言葉を発していたのだが…。 試合後に行われたセレモニーでは、多くの瞬間で梶田選手の人柄というか、この人がいかに四国で愛されていたか。アイランドリーグにはなくてはならない存在であったかが感じられた。 セレモニーの進行役の球場アナウンスの女性…グラウンドに聞こえてくるその声は時折、涙声がまじっていた。グラウンドには、ファンであり…チームメイトであり…ライバルチームの監督(香川OG西田真二監督:元広島カープ)であり多くの人が登場して梶田選手に言葉をかけ、また花束贈呈を行った。 また胴上げでは両チームのベンチから選手らが集まって、梶田選手はその名の通り「宙高く」舞うのであった…。 アイランドリーグが発足した2005年というと、N.P.B.でも近鉄球団とオリックス球団の合併や東北楽天球団の誕生など、球界再編という激動の年であった。 また世界的な不況のあおりを受けて社会人野球チームが活動を休止するなど、「野球をする場」も減りつつある頃であった。 そんな状況下、「野球の裾野を広げる」という意味ももって日本初の独立リーグである四国アイランドリーグが誕生した。ただその当初、所属選手には年齢制限も設けられていた。 つまりそれは「ここは長居をする場所ではない」ということの表れでもあった。とはいえそのルールは早い段階で撤廃されたのだけれど。 そして梶田選手が10年間、このリーグでプレーを続けてきた。たった一人だけれどもここで10年間プレーをしてきた梶田選手こそが、アイランドリーグの価値の体現者といえるのではないだろうか。 なんども繰り返すが、アイランドリーグをはじめとする日本の独立リーグは最終的に目指す場所ではない。ただ、梶田宙のような生き様を見るとこういう生き方も良いじゃないかと思えてこないだろうか? たかが野球。たかが独立リーグ…されど、ここに感動が生まれ涙が流れる。人が生きていくことの証がこの地には、ある。 最後になりましたが、梶田宙選手。今までお疲れ様でした。そして多くの感激、感動をありがとうございました。
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