しかし、南の進路はすでに決まっていた。名の通った一流企業からすでに内定をもらっていたのだ。「秋のリーグ戦どころか、夏休み前、もう六月には就職は決まってました」 それでも、南はのちGG佐藤と名乗る佐藤隆彦に誘われるままに、日本で実施されたフィラデルフィア・フィリーズのセレクションを受験した。テストに合格したのは佐藤だけだったが、南の前にも名門ボストン・レッドソックスのスカウトが現われた。 南は当時の学生が喉から手が出るほど欲しがっていた一部上場企業の内定を辞退し、レッドソックスとマイナー契約を結んだ。 しかし、1年目はアメリカでプレーすることはできなかった。「ビザが取れなくて。メキシコに行ったんです。メキシカンリーグのファームだと思います。給料はレッドソックスが払ってくれました。22歳の自分が一番年上くらいでしたね。周りはみんな10代で、大学とは比べるのは難しいんですが、結構レベルも高かったですね。潜在能力は彼らの方が高かったじゃないでしょうか。球が無茶苦茶速いとか」 南は「プロ」初めての夏を太平洋に面したマサトランという町で過ごした。ノービザという立場上、プレーしたチームやリーグはクラブチームの域を越えるものではなかったようだが、給与はレッドソックスから月750ドル、ホテルは球団が用意してくれ、食事はチームのスポンサーのレストランで済ませることができた。このような環境の中、南は4か月、野球漬けの生活を送った。 そして翌年、ビザが下りた南は、待ちに待ったアメリカでのデビューを飾るべくフロリダに渡った。スプリングトレーニングには、実に200人のマイナーリーガーが集まった。フィールドに2,3あった自分と同じ背番号は、そのままアメリカ野球の厳しさを示していた。「この中で勝ち抜かないとシーズンに入れないんだ」マイナーリーガーにとって、スプリングトレーニングは調整の場などではなかった。南はその毎日をこう振り返る。「毎日が戦いでした。自分をとにかくアピールしないと代わりはいくらでもいるので・・・」はじめ南は一番下のルーキークラスに配属されたが、すぐに1Aクラスに引き上げられた。ベンチ入りはほとんどできなかったとは言え、日本の大学のトップレベルで鍛え上げられた内野守備はポテンシャルに頼りがちなアメリカのこのクラスにあっては、ひときわ輝いていた。南は自分の守備力がメジャーレベルまでそう遠くないことを、このキャンプ中、度々上位の2A、3Aのオープン戦にバックアップ要員として招集されたことで感じた。しかし、日々ふくらます期待の一方、いつカットされるかわからないという不安とも、南は戦った。キャンプが中盤にさしかかる頃になると、日に日にがカットされていった。朝、球場のロッカールームに入ると、隣のロッカーは空になっていた。終盤になると、あれだけ雑然としていたロッカールームはガラガラになってしまっていた。 (レッドソックスマイナー時代、ルイス・クルーズ/現千葉ロッテと) そして、キャンプ最終日。この日にリリースされなければ、マイナーのロースター入りが確定する。球場に足を運んだ南は、監督から呼び出しを受けた。リリースをなかば覚悟した監督の口から出た言葉は、「Congratulation!」だった。南が野球の母国、アメリカでプロになった瞬間だった。配属された1Aチームにはケビン・ユーキリス(現楽天)、ルイス・クルーズ(現千葉ロッテ)、ルイス・メンドーサ(現北海道日本ハム)、トニー・ブランコ(現横浜DeNA)などそうそうたるメンバーがそろっていた。彼らや現役メジャーリーガーたちとともにプレーしていたあの時の南は、確かにメジャーリーグへの階段を昇っていた。しかし、運命の女神はあまりに非情だった。開幕して数試合目のことだった。バットを振った瞬間に手首に激痛が走った。複雑骨折。全治3か月を通告された。手術を受け、リハビリに明け暮れる日々。季節はいつの間にか夏になっていた。8月中旬、ようやく試合に出られるまで回復し、ルーキーリーグで結果を出し、そろそろ元の1Aに戻れるのではという期待とは裏腹にコールアップの声はかからず、シーズンは終了してしまった。シングルAには、すでに南の席はなかった。夏の終わりと同時に、球団からは、リリースの旨だけが通告された。納得できるはずがなかった。怪我も癒え、さあこれからと張り切っていた矢先のクビ宣告。海を渡って遅れてきたルーキーには、リベンジのチャンスすら与えられることはなかった。世界中からプロスペクト(有望株)が集まるMLBのマイナー組織にあって、自分の代わりなどいくらでもいることを南は思い知った。(レッドソックスマイナー時代、ルイス・メンドーサ/現北海道日本ハムと)近日発売の「読む野球」4号でサムライ企画が始まります。よろしく
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