(甲子園球場で力投する矢島正徳)黄色い歓声に矢島の声がかき消される。矢島たち大人の試合が終わると、彼らよりひとまわりサイズの小さなユニフォーム姿がフィールドに散らばり、スタンドの最前列には、いかにも今どきの、といった女子大生たちがボールが跳ねるたびに大声を挙げていた。「そう言えば、僕らにも応援団、いたんですよ。現地の留学生の女の子だったっけなあ。サンディエゴとかフラトン(カリフォルニア州ロサンゼルス近郊)に行くと、日本人、いっぱいいましたから。そういう子見つけると、『次、いついつ来るから』って…。楽しかったですね。あと、球場にも、インターンシップに来てた日本人の学生さんもいて、そういう人たちが、その球場に来た時、帰る時、一席設けてくれましたね。今でも交流ありますよ」甲子園での登板を終えた矢島にネット裏のスタンドでサムライベアーズのあの1年を回想してもらっていた。矢島のチームが参加したこの軟式野球の大会は、スポンサー集めの都合からだろうか、社会人チームと大学生チームから甲子園球場での全国大会のチームを選抜している。大学野球の第一線でプレーした経験をもつ者の多い、社会人の強豪に比べ、大学では硬球を握ることをやめた大学生チームの選手の技量は誰の目にも劣っていることがわかる。拙い野手のグラブさばきを見ながら、「やっぱり大学生ですね」 と笑いながら矢島は、今、フィールドで駆け回っている若者とあの頃の自分を重ね合わせたのだろうか、「そういう僕も、あの子たちと大差なかったのかもしれませんが」と言いながら、2005年シーズンについて語りだした。「もうプレーは見て知ってるから、来てくれって」 根鈴雄次にそう言われて、神宮球場の室内練習場に足を運んだのは春先だったか。トライアウトは受けず、すでに入団は決まっていた。「時期はもう忘れちゃいましたね。みんなどう言ってます?そうそう、関(連太郎・のちENEOS)がいたのを覚えてますよ。法政のグランドにも行きましたね。6回くらい集まったかな、いや、もっとかな。でも10回も集まる時間なかったですよ」 渡米まで、全体練習があまりなかった分、矢島は、自分なりに体を作って調整したという。一方のチームだが、寄せ集めの感は否めず、不安を抱えての渡米となった。「このメンバーでできんのかな、って感じでしたね。人数も、技量もどうかなって、その上、リーグじたいもその年が初めてでしたから。当時、ノーザンリーグや、アトランティックリーグってのがレベルが高くて、フロンティアリーグがそこそこ。じゃあ、ゴールデン・ベースボール・リーグってのはどえれくらいかな、そういう不安もありました。 メンバーに関しては、関なんかが、早くから入って、僕が合流した時には、知っているメンバーは何人かいたんですけど…。でっかい五十嵐(貴章・元ヤクルト)さんもいましたし、根鈴さん、ナンチャン(南容道・元レッドソックスマイナー)もいましたね。そのあたりのメンバーだったら…、ホントにできんのかな…、やんなきゃいけないって心境でしたか。でも、なによりも、自分がプレーできる場があったってほうが大事でした。 その関東のメンバーの他に、大阪で集めたメンバーもいることは後で知りました。彼らは、シーズン前に一度渡米してるんですか。それは知りませんでしたね」 条件については、渡米前にすでに話がついていた。「お金の話は、もう根鈴さんとしてましたね。矢島だったら、これくらいって…。あのメンバーの中じゃ、いい方だったと思います。根鈴さんほどじゃないけど。10万か15万。1200ドル?、1400だっけな。それにミールマネー、だと思います。金額は全然気にはならなかったです」 4月半ば、サムライベアーズは、アメリカへ旅立った。ロサンゼルスで体をほぐしたあと、一行は、キャンプ地であるアリゾナ州ユマに向かった。「野球場に裏に、給水塔があって、ああやっと来たなって思いました」 内野まで芝が敷かれているフィールド、固い粘土質のマウンド、すべてがアメリカだった。「みんな違いましたね。ボールも違いましたし」独立リーグとはいえ、アメリカプロ野球。結果が出ないとすぐにリリース(解雇)が待っていることはわかっていた。しかし、矢島はすぐに、このリーグでやっていけることを確信した。「はじめは、やっぱりクビもあるのかなって思いましたけど。やっていくうちに、自分の中でつかんだんですよ。ちょっと遅いんですけど(笑)。バランスっていうか投げ方って言うか。だから、ある時期からこれはいけるってのがあったんですよ。それで、(首脳陣から)信頼もらったし、クビになる心配は全くなかったです」むしろ、自分のことよりも、チーム全体の方が気になった。ブルペンからフィールドに目を移すと、日本で抱いた不安が胸をよぎる。一部の主力選手の他は、素人同然のレベルと言っても言い過ぎではないこのチームが、マイナーとは言え、アメリカのプロリーグでやっていけるのだろうか。そんな不安を抱きながら矢島は、キャンプを過ごした。それでも、開幕は待ってくれなかった。アリゾナ州サプライズでサムライベアーズは、記念すべき5月26日の開幕を迎えた。 開幕戦のマウンドに立ったのは、森田(聡・現巨人球団職員)だった。初登板はこの先発投手が5回6失点でノックアウトされた6回に巡ってきた。矢島は1回を無失点で上々のアメリカデビューを果たした。「森田、よかったですよ、キャンプでは。こいつでも滅多打ち喰らうのかなって、ブルペンで思ってましたから。練習ではいい球投げてましたよ。こいつスゲーなって、いい変化球投げるし。でも結局マウンドさばきって言うか、それが問題なんですよね。打たれちゃうんですよ。結局、なかなか勝てなくて、関がエースになったんですけど。関はもう、ブルペンでも、試合でも変わらなかったですね。勝負強いと言うか。森田はそこがね」 開幕戦は落としたものの、第2戦に勝利し、ようやく船出したサムライベアーズだったが、その後は連敗街道を突っ走った。「先発、抑えは整ってましたけどね。森田、関、五十嵐さんが先発で、リリーフは僕、抑えは最初、木津ってのがいて…」 という矢島は、配置に対するこだわりはなかったという。「先発は、なかったです。最初から中継ぎ。先発したいとも思いませんでした。自分でリリーフに向きだってわかってましたから。むしろ、そっちやらしてくれって感じでした」 9つしかポジションがなく、レギュラーは毎日試合に出る野手と、様々な役割があり、それぞれ登板機会がそれなりにある投手との違いなのだろうか。「どうなんでしょ。投手陣は、仲いいですよ。シダックスの時も、そうでした。変なヤツはいなかったですしね。まあ、サムライの時は、最初、中継ぎでやっていて、抑えをやらせてほしいなとは思いましたけど」 抑え役を引き受けたいという矢島の希望は、ほどなくして叶えられた。開幕当初のクローザー、木津朝之が失敗を重ねると、矢島にそのお鉢が回ってきたのだ。しかし、肝心の自分に回ってくる前に試合が壊れてしまうことが多かった。「やっぱり、全体的にプロとしてはレベル低かったと言われてもしかたないですね。打たれもするし、だから、とくに先発の柱以外のピッチャーは、投げるところがなくなって四球になっちゃった、そういう感じでしたね」 3か月とは言え、ほぼ毎日試合という経験をしたことがあるものは半数もいなかった。それがプロというものだったが、バスで町から町へと渡り歩き、到着すればすぐに試合。若いとはいえ、体にはこたえたのではないだろうか。しかし、矢島は投手陣にはそれほどダメージはなかったと言う。「野手、とくに内野手は大変だと思いましたけどね。ピッチャーの中でも、僕なんか抑えなんで、勝ってれば行くけど、負けてる試合が多いんで、毎日投げるってこともありませんでしたから。先発も登板間隔決まってましたから。体的には大丈夫だったんじゃないでしょうか」
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