ともかくも、矢島はこの番組に参加することになった。フロリダ・マーリンズ(現マイアミ・マーリンズ)のテスト生としてアメリカに渡り、3か月の間、現地のアカデミーで汗を流した。期待に胸をふくらませたが、2月に入り、いよいよメジャーのキャンプが始まるというときに通告されたのは、不採用通知だった。 この時、矢島とともに海を渡ったのは、ふたりだった。そのうち、番組が好みそうな、高校を中退した16歳の少年が、潜在能力と将来性を買われ契約を結んだ。しかし、その少年も結局、マイナーの公式戦に足跡を示すこともなく、アメリカを去っている。「確か彼は肩を故障したんです。手術勧められたらしんですが、辞めたみたいですね」 番組は彼らの「その後」を伝えることなく、テスト生として海を渡ったところで終わっていた。テレビ画面の向こうの視聴者が消費するのは、社会の本流から外れながらも、途方もない夢に向かって進んでいく若者の姿だった。それだけ十分だった。その後の、当時の若者と変わることのない現実は売り物にはならなかった。「でもね、もう一度行ったんですよ。アメリカに」 番組を放送したテレビ局から、続けるなら金銭面はバックアップすると、申し出があり、矢島はその声に甘えることにした。「予算が余ったんでしょうね」、と矢島は言う。確かに、そうだったのかもしれないが、限りなくプロレベルに近い矢島なら、ひょとしてアメリカで大化けするかもしれないという、テレビ局側の打算もあったのかもしれない。奇跡的にメジャーまで上がれば、これ以上ないコンテンツになるし、アメリカでダメでも、日本のプロ球団に入ることもあるかもしれない。そういう計算なしに、私企業であるテレビ局が、金を出すとは思えない。 矢島は、つてを頼って、ペンシルバニア州のジョーンズタウンと言う町に行った。ここには、独立リーグではあったが、プロ球団があったのだ。
2003年シーズンをここで過ごすつもりの矢島にまたもや壁が立ちふさがった。裾野の広いアメリカのドラフトにかかることのなかった選手が集まる場所とあって、矢島は一目見て十分にやっていける自信が出たという。しかし、結局、公式戦のマウンドに立つことはなかった。ホームゲームでチームと一緒に練習する以外は、球団スタッフの家でただ無為に過ごすしかなかった。「あの頃は、もう例のテロの後だったでしょう。その前までは、ビザもあいまいなかたちで入国できたらしいんですよ、でも、もうそれもできなくなって…」 「観光客」という立場で入国した彼が、プロ野球という労働に携わることを当時の緊迫した国際情勢はもはや許さなかった。テレビ局がくれた捨扶持は早々と尽き、矢島はそれまでアルバイトで貯めた蓄えを切りくずして、見知らぬ土地での夏を過ごした。 夏が終わり、なすすべなく帰国した矢島だったが、思いもかけない吉報が待っていた。社会人野球の新興強豪チーム、シダックスからのオファーを受けたのだ。この年、この会社は全国制覇を狙うべく、プロの世界でも知将の名をほしいままにした野村克也を監督として招聘、その目標を達成するため、選手集めに乗り出していたのだ。テレビ画面に映る矢島の姿をチーム関係者のひとりが目にし、この投手を探し出そうという話になったのだという。「それで、ちょっと連絡着く奴いないのかってことになって、大学時代の監督のところに電話が来たんですよ。最初はね、大学の時のことがあったんで、信用できないって思ったんですけど…」 ためらう矢島の背中を別の人物も押した。「せっかくなんだから、受けてみろよ」 他に選択肢もなかった。せっかくの縁だからと受験したセレクションで、矢島は見事合格を勝ち取った。赤いユニフォームに袖を通した矢島には、正社員の身分が与えられた。「業務」は野球だけでいいという。野球をする場所を探して流浪していた矢島にとって、これ以上の条件はなかった。「シーズン中は野球しかやりませんでした。それで、給与も月給でちゃんともらいましたからね。初めて給与明細なんてもらっちゃって。もちろん税金も保険料もさっぴかれてましたけど(笑)。普通の社員と同じです」 ここをステップに、プロへ。意気揚々と新しいシーズンに臨んだ矢島だったが、それもつかの間の夢だった。 チームに合流した矢島が、まず直面したのはそのレベルの高さだった。社会人野球日本一を目指す当時のこのチームは、プロの二軍では歯が立たない程の戦力を整えていた。 矢島は、まず、打撃陣の中軸を担っていたふたりの助っ人に度肝を抜かれた。当時アマチュア世界最強を誇っていたキューバの主砲、オレステス・キンデランとアントニオ・パチェコをこのチームは迎えていたのだ。その全盛期を過ぎていたとは言え、バッティング練習で目にする両雄の打球は、矢島がそれまで見たどの打球もかなわない弾道で外野フェンスを越えていった。「やばいですよ、半端なかったですよ。野村監督も彼らには言うこともなかったようでした。彼らも監督の言うこと聞かなかったですね。彼らは彼らのスタイルで、野村さんも全くいじらなかったです。もう、ウォーミングアップの時から我流でした。あれで結果が悪かったら野村さんもなにか言ってったと思いますけど、結果残してましたから。キンデランなんか、都市対抗では、得点圏打率、5割くらいじゃなかったですかね。ホント半端なかったですから」 宿願の日本一はならなかったが、シダックスは2003年の都市対抗野球で決勝まで進んだ。ここでもキューバ人助っ人、キンデランはホームランを放ち、格の違いを見せつけた。 シーズン後、キューバ人ふたりは、会社からボーナスとしてワゴン車とそれに入りきれないくらいの家電製品を手にして帰っていった。
(「あの頃」を振り返る矢島 2014年11月28日 阪神甲子園球場)
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