そろそろ師走を迎えようかという11月終わり。甲子園球場は、季節がひと月戻ったのではないかという暖かさに包まれていた。この絶好の野球日和に季節外れのユニフォーム姿がフィールドに散らばっていた。マウンドの投手は小気味いいストレートをキャッチャーのミットに叩き込む。ボールをリリースする瞬間、ロージンの白い粉が帽子の斜め上で散った。ネット裏で見ている分には、これだけで十分な迫力だった。しかし、それだけだった。その投手の速球と鋭いスライダーをまともにはじき返す打者は皆無だった。しかし、ようやくバットにかすった当たりそこないの力ない打球は、いとも簡単に内野の間を抜けていってしまう。 普段プロ野球を見ているスタンドから見ると物足りないが、彼らが普段プレーしているグラウンドで、この風景を目にするとため息が出るだろう。彼らが手にしていたのは、軟式ボールだった。この日、行われていた試合は、軟式野球の全国大会だった。高校野球の聖地を使用するだけあって、ゲームは「草野球」というにはあまりにもハイレベルなものだった。「いえ、別に『甲子園』だから、どうのってことはないですね」 次の試合に備えてアップをしていた矢島正徳は、こともなげに「聖地」のマウンドに立つ心境を語った。「まあ、あの甲子園だから嬉しいことは嬉しいですけど。いい球場でプレーできるって程度ですね。神宮でも、東京ドームでも同じような感じです。そもそも、僕、高校野球っていうのには、あまり賛成ではないんです」 と、冷静に語るのは、自身が高校時代、甲子園が夢のはるかかなたにあったからかもしれない。小学校3年の時にリトルリーグで野球を始めたという、どこにでもいる普通の野球少年は、平凡な高校球児として漫然と野球を楽しんでいた。「野球ですか、そんなにうまくはなかったですね。まあ、運動は得意だったですけど。高校も、都大会ベスト8どまりでしたし、まあ、野球やってたから、プロになりたいなとは思いましたけど、なれるなんてこれっぽっちも考えてませんでした」矢島の出身校である城西大付属城西高校からはプロ野球選手も何人か輩出している。その筆頭は広島カープ黄金期のリードオフマン、高橋慶彦だった。しかし、自分が高校に上がる頃にはすでに引退していた大先輩と自分を重ね合わせることなどなかった。だから、甲子園に特別な感情もない。「それに、前に一度来てるんです。テレビドラマの演技指導で。あの時も、マウンドに立って、スタッフに言われるがままキャッチャーにボール投げてましたね」 そのような特殊な体験をしていることは、彼の野球人生が紆余曲折の多かったものであったことを物語っていた。平凡な高校生が、何の気なしにそのまま系列の大学に進学し、野球を続けたことが、彼の人生を大きく変えることになった。 ブルペンで肩を仕上げた矢島を、前の試合が待たせた。点差がつき、翌日の決勝に備えエースを早々と代えてしまった勝ちチームに対し、負けていたチームも、せっかく甲子園まで来たのだから、と平日にもかかわらず仕事を休んで遠征してきたベンチ入りメンバーを次々と「記念出場」させてきたのだ。80分という時間制限はあったが、最終回裏の攻撃を前にして、拙守を続けさらに点差を広げられる展開は制限時間を大幅にオーバーさせた。 「聖地」を一日借り切っての4試合とあって、試合後はあわただしく選手が入れ替わる。前の試合のチームがベンチを引き払う間、矢島はフィールドの土を確かめるようにキャッチャーと投球練習を始めた。いつもはこういうグラウンドでプレーするのかという私の問いに、矢島は「するわけないでしょ」と笑って返した。 試合が始まると、いつもと勝手が違うマウンドに違和感を抱いたのか、前年の優勝チームのピッチャーは制球が定まらず、矢島の在籍する「浅井病院」に先制を許していた。(現在はサラリーマンをしている矢島) ただ野球が好きだった、それだけの理由で入った大学の野球部だったが、ここで矢島のストレートはみちがえるような変化を遂げる。このことが遠い夢でしかなかった「プロ」を手の届く現実に変えた。「大学も今は強くなってきてますけど、あの当時はそんなに環境も良くなかったですし。でも、なぜだかわかりませんが、3年くらいからなんか球が速くなってきたんです。それで、雑誌なんかで取り上げられるようになったんですよ『ドラフト候補』なんて。それでその気になっちゃって…」 登板時には、スカウトが姿を現すようになった。しかし、そういうときに限って力みからか、満足いくマウンド姿を見せることはできなかった。結局、夢は夢のまま、矢島は卒業を迎えることになった。 卒業後は、監督の紹介で実業団チームに入る予定だった。しかし、当時は「失われた20年」の真っただ中。再編が進む業界にあって、就職予定先企業に社業に専念する予定のない新人を迎え入れる体力は残っていなかった。卒業を控えた年明けになって内定の取り消しが届いた。「監督が実業団だったら行けるだろって。だから、就活もしてなかったんですよ。実際、練習にも参加させてもらってましたし…。それが、突然ダメだって言われてもねえ。監督もそれじゃ困るって一緒に怒ってくれましたけどね…。なんか世の中こんなもんなのかなって」 途方に暮れた矢島だったが、野球を続けることにした。ここで初めて気持ちが定まった。「どうせ続けるならてっぺんめざそう」矢島の中で、プロがかたちになって現れてきた瞬間だった。大学野球部のつてを頼って、ウェルネス専門学校に進むことになった。「野球に力入れるから来てくれって」 学校側のその言葉だけを頼りに矢島は、学生を続けることにした。「一応、特待生扱いで、学費はずいぶんまけてもらえました。年間20万くらいだったかな。あと1年だけって親に無理言って出してもらいました。もうホント、バイトもせず、野球だけやってました。学生っていっても、講義も受けませんでしたけどね」 しかし、ここでの選手生活は半年で終わってしまう。社会人クラブチームとして大会に出たチームが早々と敗退し、シーズンを終えると、「傭兵」であった矢島の用は済んでしまったのだ。 再び行き先のなくなった矢島に、1本の電話が入った。アメリカ独立リーグでプレーした経験を持つ、池田豪という人物からだった。「池田さんとはそれ以前から付き合いはあったんですけどね。テレビに出ないかって…」 同じ時期に別ルートからも同様の話があった。2001年秋。日本のプロ野球で活躍した選手が次々と海を渡り、それまで手の届かない世界だと思われていたメジャーで本場の選手と対等に渡り合うようになったあの頃、町中では、それまで普通の女の子だった若い娘が、一夜にしてトップアイドルに変身するようになっていた。若者が「就職氷河期」にあえいでいたあの時代、メディアがしつらえた舞台が、普通の若者をスターダムにのし上げるようになっていた。「オーディションでメジャーに挑戦しようって番組なんだけど…」 しかし、この誘いに、矢島は二の足を踏んだ。「やらせのうわさを聞いてたんでね」 実際この番組は、のち「やらせ」と言われても仕方がない過剰な演出が問題となり、打ち切りとなった。結局、矢島は話を受けた。野球を続けることができる可能性が少しでもあるなら、それにかけてみようと思ったからだ。「まあ、自分から応募するには抵抗ありましたが、誘われてってことならやってみようかなと」 笑いながら矢島は当時を振り返る。「僕はごくごく普通の学生でしたよ。実際、行ってみると、すごい連中が集まってるんですよ。野球とは関係ない奴ら、要するにサクラですよね、そういうのがいっぱいいたんですよ」 あとでわかったことだが、最初のオーディションには人が集まらなかったらしい。プロのスカウト網が充実し、社会人企業チームもある日本で、そこから漏れた人間がメジャーリーガーになれるなどと虫のいいことを考える者は決して多くはなかった。その上、番組側はいかにもドロップアウトした若者が、鬼コーチにしごかれながら、夢に近づいていくというストーリーをはじめから作っている。矢島の目に入ったのは、いかにもと思われるようなアウトローな集団だった。「だからこういうのは嫌なんだよな」。実際の現場を見て、矢島は吐き捨てた。
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