(今尚 クラブチームで現役を続ける島田) 捨てる神あれば、とはよく言ったものだ。後輩選手から電話が入った。「うちに来ませんか」。かつてプレーした佐世保ドリームスターズが、長崎セインツと名前を変え、プロ化に舵を切っていた。翌2008年シーズンからの四国アイランドリーグ加入を前に補強を行っているという。トライアウトの受験が課されたが、アメリカの独立プロ、アマチュアのトップレベルを経験していた島田は、これはなんなくクリアした。 しかし、すでに三十路を前にした島田の入団に監督の河埜敬幸が難色を示した。リーグやチームの方針は、あくまで若い選手を育ててNPBに送るということだった。NPBのトップでプレーし、指導者経験のある河埜には、島田にもう可能性が残っていないことは分かっていた。「だから、僕みたいなのはいらないって言われたんですけど、とりあえず向こうへ行って練習に参加させてもらったんですよ。でまあ、パフォーマンスだけでなく、みんなに経験なんかも伝えますってことで入れてもらうことになりました」 前年までクラブチームだったセインツの戦力は明らかにアイランドリーグの他チームのそれにはるか及ばなかった。背に腹は代えられない球団は、ベテランの入団を認めた。島田は、NPBの経験もあるエースの前田勝宏にも声をかけ、セインツにのりこんだ。セインツでは1シーズンだけプレーした。これが彼のプロとしての最後のシーズンとなった。 報酬は、「アイランドリーグで生計立てるものではないから」という球団の方針の下、独立リーグでも一番低い方だったという。プレーで若い選手に範を示すという意気込みとはうらはらに5月に入ったころにけがをしてしまい残りシーズンは、選手にノックを打つなど、なかばコーチとして過ごした。またもや裏方に回されたのだが、島田は黙々とその仕事をこなした。「むしろチームに迷惑かけて申し訳なかったです」 この謙虚さは、彼がプロには決して向いていないことを示していた。 日本の独立リーグでの2年目はないものと分かっていた。シーズン終了後、島田は故郷の横浜に帰った。大学時代の目標であった教員目指して勉強をし直そうとしていた矢先に、高校時代の同級生から電話があり、保健体育の教員として非常勤講師の職を得ることができた。 高校野球の指導者というもう一つの夢に近づいたかに見えたが、そこにプロアマ規定が立ちはだかった。独立リーグとはいえ、日本のプロでプレーしていた島田は、野球部員との直接の接触は禁止されていたのである。「今はずいぶん緩和されましたけど、昔は正式採用されて2年経たないとクラブの指導はできなかったんですよ。だから結局、彼らとは体育の授業で接するだけでしたね。でも、なんかおかしいですよね、野球部の選手とも授業中は接するわけですから。でも、日本ではそこは気をつけないとだめなんですよね」 初めて受けた教員採用試験はあっさり落ちた。勉強不足を感じた島田は、日中の勤務が終わると、夜は予備校に通った。将来的には高校野球の監督をしたい、その一心だった。 翌年も合格通知を受け取ることはできなかったが、1次の学力教養試験は突破した。あと一歩、その壁を野球では乗り越えることができなかった。ここで乗り越えないことには、負け犬のまま終わってしまうことは島田自身が一番よく分かっていただろう。 島田は乗り越えた。石の上にも3年。3回目の採用試験に島田は合格した。 彼は、2012年4月から養護学校の教諭として勤務している。現在の職場は、高校野球とは縁のない場である。しかし島田は腐ることなく、「その時」を待ちながら、ハンディキャップを負った生徒たちと向かい合っている。 自分では「元プロ野球選手」だったということはない。しかし、職員室から生徒にはそのことは伝わっている。独立リーガーの殻を破れなかったことを恥じる必要はない。自分の可能性を信じて、懸命に白球を追ったあの夏の経験は今確かに生きている。 「どんなに遠回りしても、その活動が本気で取り組んだものならば、無駄ことはなにもないと思います。もちろんちゃんと就職してお金蓄えた方がいろいろできるとは思うんですけど、やっぱり自分自身でなにかチャレンジした経験っていうのは、報われれば最高ですけど、報われなくても自分の中に残るんじゃないかなって思ってるんで、子どもにもそういう教育していますね」 教育者・島田は今も、クラブチームでプレーを続けている。その実直さは、都市対抗に出場できなかった原因でもあった、マネージャーの仕事もいまだ引き受けている。プロ選手としては、その性格が邪魔したのかもしれない。しかし、現在の職にはこの実直さは確かに生きている。最後に島田に尋ねた。子どもが大きくなって、自分と同じような球歴でアメリカに渡りたいって言ったら、独立リーグでもいいから野球したいと相談しにきたら、どう諭すのかと。「行って来いって背中押しますね。勧めはしないですけど、自分でそういう道を探して、自分でチャレンジしたいっていうことならば、ベストの状態で行かせてあげたいですね」 島田にとって、サムライは決して回り道ではなかった、あの夏は確かに彼にとってのベストの選択であったことが、彼の表情からにじみ出ていた。アメリカ独立リーグの現実を週刊プレーボーイに寄稿しました。「ノマドリーガーはつらいよ アメリカ”底辺独立リーグ”の選手たち」。ご一読ください。
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