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Channel: 野球:海外/独立リーグ
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その後のサムライたち:島田稔理編②

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「実際は、おかしなかたちで、コネみたいな形で受かった選手もいたみたいですね。仲介業者がいたんですよ。自分も最初声かけられたんですけど、要するに合格を世話するからってお金取るんですよね。そのあとはあんまり面倒みないんですけど。そのつながりで、ピッチャーがひとり入ったのは知っています」正式な契約は4月になってから、開幕の5月を前にした頃だった。島田の話では、その前に2月に一度メンバーで渡米したと言う。春季キャンプだったらしい。ここでさらに何人かの選手が削られた。30人ほどの選手が、開幕ロースター入りをかけて、日々必死で汗を流している間、その裏では、大人の事情が動いていた。日本国内で募ったスポンサーが内紛をおこし、撤退するという事態に陥ったのだ。「最終的には、結局、最終的にはゴールデンベースボールリーグじたいがチームのオーナーになったんです。それまでは日本人のお金持ちが出資してくれて支えてくれてたんですが、その方たちは、自分たちがオーナーって言う気でいたのに、実際はキャンプまでのサポートだけだったみたいな、それでちょっともめたらしいんです」。 2月の「キャンプ」は、おそらく余剰人員を削るための2次トライアウトのようなものだったのだろう。彼らはこれに自費で参加、何人かの者は、自分の夢をわざわざアメリカまで行くことになった。 帰国後、しばらく何の連絡もなかった。「本当にアメリカでプレーできるのだろうか」。そんな疑問が頭に浮かんできた頃、航空券が送られてきた。成田空港に集まった一行とともに、島田は、再び太平洋を渡った。「プロ野球選手」という夢を叶えに。 実際に体感したアメリカの独立リーグだったが、覚悟していたほど厳しいくはなかった。なんとかやっていけそうな感触を持てた。当時6つか7つあったアメリカの独立リーグでも一番レベルは低いと聞いていたが、正直やってできないことはないという思いを持つことができた。「ピッチャーも速い球の人もいるんですけど、キレがなかったりとか、真ん中来たりととが多かったので、自分でも打ち返せたんだと思います」 月給は、ルーキーに提示される最低の750ドル。アメリカですでにプレー経験のある選手に比べれば随分と少なかったが、マイナーでは給料はプレー年数でほとんど決まってしまうらしいので気にはならなかった。そもそも、連日試合で金を使うこともなかったので、それで十分だった。肝心の野球の方は、シーズンが始まって間もなく壁にぶち当たった。「シーズン始まってからは、やっぱり緊張しました。他のチームにはすごい選手もいたんで。怖いなって感じしてたんですけど…。僕じたいは、出だしはクロマティ監督に気に入られてレギュラーで2番なんか任されました。バントヒットや盗塁くらいしか魅力のない選手だったんで。そのうち、いろんな選手を使いまわすようになって、そのうち控えになったって感じですね。しばらくすると、いろんな選手がクビになっていって、僕も打率2割ちょうどくらいになっていったんですよ。冗談っぽくですけど、(監督からは)『お前もうクビだよ』なんて言われるようになりました」十分な戦力を集められないまま開幕に突入したサムライベアーズは混迷を極めた。気まぐれ屋の元メジャーリーガーが、癇癪を起すのにさほど時間はかからなかった。成績を落とす自分に向けられる言葉が、あながち冗談でもないことは、ベンチを温める選手たちがたまに試合に出てミスを犯すと、罵声を浴びせられたあと、荷物をまとめるように命じられていったことが示していた。 (現在もクラブチームでプレーする島田)

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