ダニーデンから車を飛ばしてタンパに戻る。国道で1時間ほどだ。 ここは言わずと知れた、ニューヨーク・ヤンキースのキャンプ地。市の北方にあるどでかいスポーツ公園にあるメイン球場はかつて、「レジェンズ・フィールド」と呼ばれていたが、今では旧オーナーの名をとって「スタインブレナー・フィールド」に変わっている。さすがに名門、試合はなくとも、球場見学だけの観光客もいる。 とりあえず、メイン球場を訪ねたが、横にひとつだけあるサブ球場はもぬけの殻。ここのキャンプ施設は、メイン球場とサブ球場が離れているようで、幸い、球団スタッフがいたので、ルーキーのゲームはどこでやっているのか尋ねると、ワンブロック離れたところにあるスポーツコンプレックスでやっているという。ワンブロックと言っても郊外ではゆうに1マイル(1.6キロ)は離れている。スマホで地図を示してくれたのでとりあえず場所は分かった。マイナーの施設は、この町最大のスタジアムであるフットボール場に連なる緑地にあった。緑地には4面のフィールドがあって、そのうちの「ジーター」の名前がついた球場で試合は行われていた。ダブルヘッダーの2試合目が始まったところだった。 これもさすが名門。通常はこのクラスのリーグでは場内アナウンスなどないのだが、未来のスターを観にやってきた数人のファンのためにやっている。ちなみにガルフコーストリーグでは、数球団が2チームを保有しているが、この日の両チーム、タイガースとヤンキースも「ウェスト」と「イースト」のふたチームをもっている。この日の対戦は、ともに「ウェスト」チームの対戦だった。ヤンキースの先発は、トニー・ヘルナンデス。初回味方のエラーもあり4点を失い、4回で5失点を喫したものの、自責点は2。 タイガースは、ノエル・エバジェスが先発。先制してもらいながら、3回で4失点を喫し、試合は分からなくなる。 レイクランドのレポートでは、このクラスではまだまだ投手のスピードがないとしたが、ここで訂正せねばならない。やはり世界中から素材が集まるアメリカ。この日は投手のストレートは、のきなみ90マイル(144キロ)を記録していた。これに80マイル(128
キロ)弱の変化球が加わる。試合の最後を締めくくる後半のリリーフは95マイル(152キロ)越えも珍しくない。 ヤンキース2番手のヨルダン・オバジェス。 1回を1失点だったが、ストレートのMAXは92マイル、これに78マイルのスライダーを投げる。
3番手のホセ・プホルス。MAX93マイル、変化球79マイル。彼らはいずれもドミニカンだ。このチームは35人中、ドミニカンが実に15人もいる。試合の方は初回に大量点を挙げたタイガースがいったん追いつかれながら7対6で逃げ切った。勝利投手は、3番手のブリス・ワーナー
2勝目を挙げた。コーチと選手でユニフォームが違うのだが、育成リーグとあって、このあたりはどうでもいいのだろう。そのような興行から離れたところにあることは、試合を観ているとあらゆるところにみられた。例えば、次打者の位置。ベンチの位置は関係ない。右打者の時は3塁側、左打者の時は1塁側。つまり、打者の背中側で次打者は待つ。ファールゾーンが狭く、ベンチからホームベースまでが近いので、打者と反対側で待っていると、強烈な打球が飛んできて危ないのだろう。あるいは、ユニフォーム。指導陣と選手で違うのだ。このあたり、実におおらかだ。 また、試合中、ベンチとは反対の場外の木陰で休んでいる選手も、聞けば、監督にそこにいろと言われたらしい。要するにファールボールを拾うためだ。 試合後、タイガースの選手が声をかけてきた。 「第1試合で投げたんだけど、俺の写真を撮ってないかい?」 あいにく第2試合から来たんだと答えると、その選手は残念そうにバスに乗り込んでいった。この投手が第1試合で、ノーヒットピッチングを演じたことは、あとでサイトを確認してしった。ただし、マイナーのダブルヘッダーは7イニング制で、アメリカでありがちな球数制限もあって、彼は5回を投げ、リリーフの2番手と合わせてのノーヒットノーランだったようだが。 このリーグは。とにかく素材重視だ。世界中から、野球経験はともかく、ポテンシャルを見込まれた選手が集まっている。 この日のヤンキース・ベンチにアルトゥル・スシャルカという選手がいた。 試合中のベンチではひとりぽつんと座っていた印象なので、まだ英語が苦手なのかと思ったが、話してみるとそうでもなさそうだった。 21歳の彼は、昨シーズン、ガルフコーストリーグでデビュー。本人いわく「数週間」のベンチ入りだったが、リリーフで10試合に登板、12イニング1/3を投げて防御率5.11という成績だったが、「プロ初勝利」を挙げている。シーズン最初からメンバー入りした今年はここまで9試合に登板、2勝2敗で防御率6.39の数字を残している。 数字だけみると大した選手ではないが、何を隠そう彼はポーランド人初のプロ野球選手なのである。高卒後の2013年にヤンキースと契約を結び、怪我からのリハビリを経て、やっと公式戦の舞台に立った。 野球を始めたのは16歳の時だという。総チーム数が12くらいというポーランド南部の都市、カドヴィッツェ郊外で育った彼にとってアメリカ行きは夢のまた夢だっただろう。地元クラブで素質を見込まれ、隣国のチェコで実施されたトライアウトに挑戦して、アメリカ行きの切符をつかんだ。 ともかくも、ガルフコーストリーグ。一度は観てみる価値はあるのではないか。
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